「澁澤賞」というものが電気業界にあるのを知りました。
これは広く電気保安に優れた業績を上げた人に送られる賞です。
渋沢元治(もとじ)という方にちなんでいるようです。
そうです、渋沢元治さんはあの渋沢栄一の親族です。
元治さんから見て渋沢栄一は伯父にあたります。
一般財団法人日本電気協会の「澁澤賞」のページに、「澁澤元治伝」という渋沢元治さんの半生が載っていたので読んでみました。
1.渋沢元治は何をした人か?
渋沢元治さんは何をした人でしょうか?
電気の賞になるくらいなので、もちろん電気業界の人です。
ざっくり経歴をまとめました。
なんか経歴だけですごいのは伝わってきますね。
まだ日本に電灯ができたばかりのころに上京し、まだ発電技術が未熟だったころに海外視察をしています。
帰国した元治さんは日本の電気事業のために尽力します。
「電気事業法」や「電気設備に関する技術基準を定める省令」の前身である「電気工作物規程」の制定にも関わり、日本の電気保安の発展に貢献した人と言えます。
また、電気主任技術者制度についても改革を行いました。
電気の技術者というよりも「官僚」、「研究者」なのかなと思う経歴です。
しかし、いろいろなエピソードを知ると「技術者」であったこともわかります。
2.渋沢元治の印象的なエピソード
(1)回転変流器の国産第一号を開発
当時の東京帝国大学電気工学科では講義は2年生までで、3年生からは電気工事現場で実習となっていました。
しかし実習といっても講師がいるわけではありません。
なんと、現場の電気の知識のない作業員を指導するために学生が送り込まれていたのです。
確かに時代を考えれば、工事現場の人より大学生のほうが知識はあるでしょう。
当時の大学進学率なんて2%とかですからね。超エリートです。
元治さんは小田原馬車鉄道会社の電化工事の現場を選びました。
当時は汽車でしたから、電車にするためには当然工事が必要になるわけです。
この時、変電所の回転変流機の据付・運転作業で元治さんは貴重な経験をします。
理論をもとに作業を進めていたら、想定外の事態になりました。
そこで試行錯誤の上、これまで誰も知らなかった技術を見つけます。
(回転変流器の極性変異に関する技術)
実習を終えた元治さんは、教授に勧められ、この時の経験を卒業論文にします。
この論文は電気学会で発表され、好評だったので電気学会の雑誌に載るまでになりました。
卒業までの半年は石川島造船所での実習でした。
そこで技師長から回転変流器の注文があるから作ってみないかと提案されました。
当時はまだ国産の回転変流器はなかったのですが、元治さんは喜んで引き受けます。
そして国産第一号の回転変流器の図面を完成させました。
学生の立場で会社の商品を作りますと言えるあたりはただものじゃないですね。
エリートの電気工学博士というと机に向かって研究しているイメージでしたが、意外と現場たたき上げな面もあったようです。
(2)自分で感電して電気の安全性をアピール
元治さんは逓信省電気局の主任技師の立場から、100ボルトの電気を広める必要がありました。
そこで、炭鉱内のあかりを燃える危険のあるカンテラ(石油ランプ)から電灯に切り替えようとしました。
しかし当時の規制では、炭鉱内の電灯として使う場合、電線はケーブルでなければなりませんでした。
ケーブルが高価ということもあり、炭坑内の電灯がなかなか普及しませんでした。
そこで安価な第3種絶縁電線の使用を許可したらどうかという案が出ます。
しかしわらじを履く鉱夫に100ボルトの電圧は危険ではないか、と議論が続いていました。
すると元治さんは「一体人間はどの位の電圧に耐えられるのか、自分が実験してみよう」と言い出します。
もちろんこれは知識があっての提案なのでしょうが、ちょっと頭おかしいのではと思われる発言です。
塩水の入ったバケツに両足を浸け、まず両手で裸電線を握って徐々に電圧を上げていきます。
これだと30ボルトでも痛かったので、片手で触れるくらいに変えます。
すると50ボルト以上でもあまり痛みを感じませんでした。
次に劣化した第3種絶縁電線を両手で握り、電圧を上げていきます。
すると80ボルト以上でも全然痛みは感じません。
元治さんはこの実験をもとに、「劣化した第3種絶縁電線は劣化したゴムが介在物になり、結果として触れても危険性がない」と報告します。
こうして坑内の電灯線に第3種絶縁電線を使用することが認められました。
このように知識も経験もある人でも、まずやってみようと実験する姿勢は大事なんだなぁと感じました。
3.色々突っ込みどころはあるけど、渋沢元治に感謝します
元治さんは長男ということもあり、中学に進学するのもはじめは反対されます。
それを母と伯父である栄一さんが賛成してくれたことで中学へ進学できました。
高校進学についても栄一さんが後押しすることで果たせました。
両親もさすがに渋沢栄一に言われたら反対できないんですね。
無事高校に入学はできましたが、卒業がせまる頃に大病を患ってしまいます。
高校は特別に卒業させてもらいましたが、大学は受験できませんでした。
浪人するわけにはいかないと思っていた元治さんに渋沢栄一は
「病気なら仕方ないからまた受けなさい」
と言ってくれました。
しかし幸運にも休学したいという人が出たため、見事に東京帝国大学へ入学することができました。
ん?どういうことでしょうか。
試験なしで休学する学生の代わりに入学できたということ?
そういう時代だったのでしょうか。
とにかく、先述のように元治さんの卒論は高く評価され、大学を卒業します。
大学卒業後は1年ほど兵役につき、その後は古河鉱業・足尾銅山で働きます。
これについては渋沢栄一の談話によると、親しかった古川市兵衛(古河財閥創業者)から「あの子には見込があるから、是非自分の処へ寄こしてもらいたい。」と頼まれたため、本人に入社するよう勧めたようです。
コネで当時の財閥だった古河鉱業に就職したにもかかわらず、すぐに栄一さんに仕事への不満を手紙にして出します。
どんな内容かというと、
「私は電気の研究だけがしたいのに、このままだと会社のいろんな業務をやらないといけない。将来的には経営についても考えなければならない。そんなのは嫌だ。」
すると栄一さんから「近々英国へ渡るので一緒に行くように」との返事がきます。
このとき61歳の渋沢栄一はすでに日本を代表する存在で、年表を見るとこの時の欧米視察ではアメリカのルーズベルト大統領と会見しているようです。
おいおい、就職してすぐの24歳の若者が完全にコネクションをフル活用してるじゃないか!
と、まあこれは庶民のひがみですが。
その後、3年9か月の間、アメリカやヨーロッパ各地を視察して過ごします。
渋沢栄一の談話によると、このときの費用は古河財閥から出してもらっていたようです。
そのため、渋沢栄一も帰国後は古河に戻るよう勧めるのですが、元治さんは絶対に嫌だったようで説得に応じなかったそうです。
このときの言い分はこんな感じ
「自分には父や伯父の財産があり、衣食住には困らないから、働くのではなく研究がしたいのです」
マジか…
そして元治さんはお世話になった東大の教授が所長をしていた逓信省電気試験所に入所します。
このころの東大卒は今と比較にならないほどエリートですから、こういう人のつながりで国の機関に入ることができるんでしょうね。
ここまでを見ると、渋沢家という後ろ盾があることと、電気の黎明期だったということが、プラスに働いたんだなぁと思いました。
もちろん幸運なだけで功績を残せたというわけではありません。
元治さんは働きながら博士論文を書き続け、大学に認められて見事博士号を得ました。
論文を書いて博士号をとるというのは非常に稀なようで、この時、工学博士では元治さんが3人目だったとか。
ちなみにこの時の東大工学部教授がテブナンの定理を独自に発見していた鳳秀太郎でした。
(そのため鳳・テブナンの定理というのです)
ともあれ、当たり前に電気が使えているのも元治さんはじめ、先代の技術者の力があったからこそです。
感謝しないといけませんね。
最後に、電気事業の発展への思いのこもった元治さんのスピーチをご紹介します。
ワシントンで海軍軍縮会議が行われていた1921年、パリで開かれた電気技術者が集う第1回国際大電力システム会議(CIGRE)に日本代表として参加した元治さんは次のようにスピーチをして拍手喝采だったとか。
現在平和を目指して軍縮が話し合われている。
もし誤って談判決裂にでもなれば将来に禍根を残すことにもなりかねない。
我々の会議は新聞にも載らないささやかなものだが、遠い将来を思えば、
電気界の世界的提携を進める我々の会議の方が、遥かに世界平和に貢献する効果は大きいと自分は信じている
逓信省電気局技術課長 渋沢元治
【参考URL】
澁澤賞 – 日本電気協会 ※ページの中の「澁澤元治伝」

デジタル版「実験論語処世談」(37) _ 渋沢栄一 _ デジタル版「実験論語処世談」 _ 渋沢栄一 _ 公益財団法人渋沢栄一記念財団

